ニール・ヤングやスティーヴン・スティルスがデビューしたバンド
今日はバッファロー・スプリングフィールドで一番好きな曲「この1曲」を取り上げます。
バッファロー・スプリングフィールドは1966年にアメリカ・カリフォルニア州ロサンゼルスで結成されたロックバンド。
メンバーと担当楽器は以下の通り。
- スティーヴン・スティルス(ギター、キーボード、ヴォーカル)
- リッチー・フューレイ(ギター、ヴォーカル)
- ニール・ヤング(ギター、ピアノ、ヴォーカル)
- デューイ・マーティン(ドラムス)
- ブルース・パーマー(ベース)※1966 – 1968.1
- ジム・メッシーナ(ベース)※1968.1 –
カナダのトロントでマイナ・バーズというバンドで演奏していたニール・ヤングとブルース・パーマーは1966年にロサンゼルスに向かい、ヤングの知り合いだったスティーヴン・スティルスと再会。バッファロー・スプリングフィールドが結成されます。
バッファロー・スプリングフィールドは1966年4月にハリウッドのザ・トルバドールでライブ・デビューし、数日後、ディラーズとバーズのオープニング・アクトとしてカリフォルニアの短いツアーを開始しました。
バーズのクリス・ヒルマンはウィスキー・ア・ゴー・ゴーのオーナーを説得してバッファロー・スプリングフィールドをオーディションさせ、1966年5月2日から6月18日までの7週間、実質的にウィスキーのハウス・バンドとなりました。この一連のコンサートは、彼らのライブ・パフォーマンスの評判を確固たるものにし、多くのレコード・レーベルからの関心を集めました。
アトランティックと契約し、1966年8月にファースト・シングル「Nowadays Clancy Can’t Even Sing」をリリースします。セルフタイトルのファースト・アルバム「Buffalo Springfield」は1966年12月にアトランティックの子会社であるアトコからリリースされました。
アルバムには収録されていなかったシングル「For What It’s Worth」は1966年12月にリリースされ、全米7位を記録するヒットとなります。アトコはこの勢いに乗って、「Baby Don’t Scold Me」を「For What It’s Worth」と入れ替えてアルバムを再リリースしました。
1967年1月、パーマーは大麻所持のためにカナダに強制送還されますが、6月初旬には復帰。一時的に活動を休止していたヤングも8月に復帰し、その後はライブ活動とセカンド・アルバムの完成に時間を割きます。
1967年11月にアルバム「Buffalo Springfield Again」をリリース。全米44位を記録します。
バンドは1968年初頭にビーチ・ボーイズのサポートとしてツアーをおこないました。
その年の1月、パーマーが麻薬所持で再び強制送還され解雇。セカンド・アルバムでエンジニアとして働いていたジム・メッシーナが加入します。
1968年4月にエリック・クラプトンも参加していたリハーサル・パーティー中に通報され、麻薬所持の疑いでヤング、フューレイ、メッシーナが逮捕されました。これが決定打となり、バンドの解散を決めます。最後のライブは1968年5月5日にロング・ビーチ・アリーナで行われ、その後、フューレイとメッシーナは1967年半ばから1968年初頭にかけて録音された楽曲をまとめ、最後のアルバム「Last Time Around」を1968年7月にリリースしました。
バッファロー・スプリングフィールドで一番好きな曲
バッファロー・スプリングフィールドはニール・ヤングを追いかけて浪人時代に聴き始めました。2年程度の活動でアルバム3枚しか残されていませんが、その楽曲は名曲が多く、一番好きな曲「この1曲」は迷いました。
「For What It’s Worth」、「Mr.Soul」、「Bluebird」、「Expenting to Fly」などが候補にあがりましたが、選曲したのは「Buffalo Springfield Again」収録の「Broken Arrow」。
この曲、3つのパートからなる結構複雑な構成で、さまざまな効果も使われていてとってもシュール。最初はアルバム1曲目の「Mr.Soul」のオープニングから始まり、途中で「Take Me Out to the Ball Game」のカリオペ・バージョンが挿入、最後はジャズ・バンドのインタープレイと心臓の鼓動。まあ、いろいろやってますが、どれもハマっていてこの曲を壮大にしていると思います。ニール・ヤングってほんとすごいって思う1曲。
コメント