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スティーリー・ダンのおすすめ「この1曲」

この1曲

R&B、ジャズ、ラテンなどを織り交ぜ、AORの礎を築く

今日はスティーリー・ダンで一番好きな曲「この1曲」を取り上げます。
スティーリー・ダンは1972年にアメリカ・ニューヨークで結成されたロックバンド。

オリジナルメンバーと担当楽器は以下の通り。

  • ドナルド・フェイゲン(ヴォーカル、キーボード)
  • ウォルター・ベッカー(ベース)
  • デニー・ダイアス(ギター)
  • ジェフ・バクスター(ギター)
  • ジム・ホッダー(ドラムス、ヴォーカル)
  • デイヴィッド・パーマー(ヴォーカル)

ベッカーとフェイゲンは1967年にともに学生だったニューヨークのバード・カレッジで出会います。一緒に曲を作り始め、地元のバンドでカバー曲やオリジナル曲を演奏します。

フェイゲンが1969年に卒業した後、二人はブルックリンに移り住み、バーブラ・ストライサンドなどに曲を提供。その後、ABCレコードのソングライターとして雇われ、カリフォルニアに移ります。提供した曲がABCのアーティストには複雑すぎることに気づいたベッカーとフェイゲンは、ギタリストのデニー・ダイアスとジェフ・バクスター、ドラマーのジム・ホッダー、シンガーのデイヴィッド・パーマーとスティーリー・ダンを結成し、レコーディング・アーティストとしてABCと契約しました。

1972年にファースト・シングル「Dallas」をリリース。その後ファースト・アルバム「Can’t Buy a Thrill」もリリースします。このアルバムは「Do It Again」(全米6位)と「Reelin’ In the Years」(全米11位)を収録。全米17位を記録します。

フェイゲンは音域の狭さや緊張からライブで歌うことを嫌っていたこともあり、ライブではパーマーが全てのヴォーカルを担当していましたが、メンバーの説得によりフェイゲンがヴォーカルをとることになり、パーマーはセカンド・アルバムのレコーディング中に脱退しました。

1973年にセカンド・アルバム「Countdown to Ecstasy」をリリース。ベッカーとフェイゲンはこのアルバムのパフォーマンスに不満を持っていて、それはツアー中に急いで録音したことが原因と考えていました。バクスターは1974年に脱退し、スティーリー・ダンはライブ活動を縮小しスタジオで活動するようになりました。

Countdown to Ecstasy」のツアー中、バンドはロイス・ジョーンズ(ヴォーカル、パーカッション)、マイケル・マクドナルド(ヴォーカル、キーボード)、ジェフ・ポーカロ(ドラムス)を加えました。

1974年にはサード・アルバム「Pretzel Logic」をリリース。全米8位を記録し、シングルカットされた「Rikki Don’t Lose That Number」は全米4位と大ヒットしました。

ベッカー・フェイゲンと他のメンバーとの間には、ツアーをめぐって軋轢が生じ始めていました。ベッカーとフェイゲンは絶え間ないツアーを嫌い、作曲とレコーディングだけに集中したいと考えていました。他のメンバーはツアーに出られないこととスタジオでの役割減少に落胆し、徐々にバンドを脱退していきました。

ベッカーとフェイゲンは「Katy Lied」(1975)で、ポーカロ、パイク、マクドナルドをはじめ、多くのセッション・プレイヤーを起用。スティーリー・ダンのオリジナル・メンバーはベッカーとフェイゲンだけとなりました。このアルバムは全米13位を記録します。

1976年には「The Royal Scam」が全米15位を記録。イギリスでシングル「Haitian Divorce」がヒットしました。1977年には「Aja」をリリース。このアルバムは全米3位となり、グラミー賞最優秀アルバム技術賞を受賞しました。

Aja」の成功の後、ベッカーとフェイゲンは映画「FM」のタイトル曲を制作。スティーリー・ダンはふたたびグラミー賞最優秀アルバム技術賞を受賞しました。

その後はスティーリー・ダンにトラブルが降りかかります。MCAがABCを買収し、ワーナーへの移籍を計画しますがレーベルを変えることができませんでした。また、ベッカーのガールフレンドが薬物の過剰摂取で死亡。彼は損害賠償を求めて訴えられました。その直後、ベッカーはマンハッタンの道路を横断中にタクシーにはねられ、右足を数カ所骨折。さらにキース・ジャレットがスティーリー・ダンを著作権侵害で訴えるという問題も起こりました。

1980年11月にようやく発表された「Gaucho」は全米9位と大成功を収め、3度目のグラミー賞最優秀アルバム技術賞を受賞しました。

スティーリー・ダンは1981年6月に解散。 ベッカーはマウイ島に移り住みドラッグを断ち切る生活を送ります。一方、フェイゲンはソロアルバム「The Nightfly」(1982年)をリリースし、アメリカとイギリスの両方で大ヒットを記録します。

その後は1986年に二人での制作をおこなったり(音源は未発表)、ライブなどでの共演を挟み、1993年のフェイゲンのアルバム「Kamakiriad」をベイカーがプロデュースしたことから、スティーリー・ダンを復活させ、ライブ活動を再開させます。

2000年にはスタジオ・アルバム「Two Against Nature」を発表。全米6位の大ヒットを記録し、同年のグラミー賞では最優秀アルバムをはじめ4部門を獲得。2003年にも「Everything Must Go」を発表し、全米9位を記録します。

2017年にウォルター・ベッカーが食道癌のため死去。67歳でした。

ドナルド・フェイゲンはスティーリー・ダンの継続を表明し、現在まで活動を続けています。

スティーリー・ダンで一番好きな曲

スティーリー・ダンは高校生の頃に初めて聴きました。あの頃は本当にいろんなジャンルの音楽を手当たり次第聴いていたので、毎日の通学にはウォークマンと、数本のカセットテープを持ち、たまにはわざと乗り過ごしてアルバムを聴くなんてこともやってましたね。スティーリー・ダンとガンズとメタリカとイーノを持っていくような日もあったわけで、よく消化していたなと自分ながらに思います。

スティーリー・ダンで最初に聴いたのは「Aja」。一聴して「よくわからんけど、めっちゃお洒落で音が良い」と感じました。そこから通学中にこのアルバムを聴き徐々に染み渡っていきました。今でもスティーリー・ダンといえばこのアルバムを聴くことが多い愛聴盤ですね。

一番好きな曲「この1曲」もやはり「Aja」からタイトル曲「Aja」を選曲します。

最初は長いなぁと思ったものですが、馴染んでくるとこの曲の気持ち良さったらないですよね。複雑に入り組んださまざまな仕掛け、それに応えるミュージシャン。最高です。多分この曲で初めてショーターを意識的に聴いたと思いますが、ショーターのソロとスティーヴ・ガッドのドラムスが絡み合うところはいつ聴いてもスリリングです。

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