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ビージーズのおすすめ「この1曲」

この1曲
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キングス・オブ・ディスコ

今日はビージーズで一番好きな曲「この1曲」を取り上げます。
ビージーズは1958年に結成されたイギリス・マン島出身の音楽グループ。

マン島でイギリス人の両親のもとに生まれたバリー、ロビン、モーリスのギブ3兄弟は、1950年代後半までイギリスのマンチェスターのチョールトンに住んでいました。1955年にはラトルスネークスを結成し音楽活動を始めます。

その後、一家はオーストラリアのクイーンズランド州モートン・ベイ地方のレッドクリフに移り住み、その後クリブ島に移りました。

彼らはビージーズと名乗り始め、1963年3月にシングル「The Battle of the Blue and the Grey」をリリースしデビュー。

1965年に最初のアルバム「The Bee Gees Sing and Play 14 Barry Gibb Songs」をリリース。しかし1966年までには、商業的な成功を収められず、グループはイギリスに戻ります。

オーストラリアからイギリスに出発する前に、ブライアン・エプスタインにデモテープを送ります。1967年2月にオーディションを受けた後、ビージーズは5年間の契約を結び、イギリスではポリドールが、アメリカではアトコがレコードをリリースすることになりました。

ファースト・アルバムを録音する前に、グループはコリン・ピーターセンとヴィンス・メロニーをラインナップに加え、1967年7月にアルバム「Bee Gees’ 1st」をリリース。全米7位、全英8位を記録しました。軌道に乗ったビージーズは、1968年2月「Horizontal」(全米12位、全英16位)、1968年9月「Idea」(全米17位、全英4位)、1969年3月「Odessa」(全米20位、全英10位)とヒット作を連発しますが、「Odessa」発表後にロビンがグループを離れ、ソロ歌手としてのキャリアをスタートさせます。

ロビンを欠いたビージーズはバリーとモーリスが中心となってアルバムをレコーディング。1970年4月に「Cucumber Castle」をリリースしますが失敗に終わり、二人もソロの道を歩み始めます。

3人がそれぞれソロ活動を始めて間もない1970年8月、電撃的に3兄弟がそろったかたちで再結成します。10月にアルバム「2 Years On」をリリース。全米32位、全英33位と復活を遂げます。

その後は1971年9月「Trafalgar」、1972年10月「To Whom It May Concern」、1973年1月「Life in a Tin Can」とリリースを重ねますが、徐々にセールスを落とし、ビージーズは方向転換を迫られます。

1974年6月にリリースされた「Mr. Natural」はR&Bに舵を切ったアルバムで、ここに新しい方向性を定め制作を続けます。

エリック・クラプトンの提案でビージーズは1975年の初めにマイアミに移住。1975年6月のアルバム「Main Course」では、よりダンス・オリエンテッドなディスコ・ソングを制作し、全米14位を記録するヒットアルバムとなりました。

1976年9月にリリースされたアルバム「Children of the World」は、バリーのファルセットとシンセサイザーをフィーチャーし全米8位を記録します。

そして、1978年11月、ビージーズが爆発的な人気を獲得するアルバム、映画「Saturday Night Fever」のサウンドトラックがリリース。この映画とサウンドトラックは世界中で大ヒット。全世界で4000万枚を売り上げ、シングル「How Deep Is Your Love」、「Stayin’ Alive」、「Night Fever」は世界中でチャートインし、ビージーズは5部門のグラミー賞を受賞しました。

1979年2月にはアルバム「Spirits Having Flown」をリリース。全米、全英で1位を獲得。ディスコブームの中、ビージーズは圧倒的な成功を収めます。

80年代に入るとディスコブームも落ち着き、ビージーズの躍進もスローダウンします。アルバムのリリースも「Living Eyes」(1981年)、「E·S·P」(1987年)、「One」(1989年)とペースを落とし、プロデュース業やソロ活動などグループ外の仕事を増やしていきます。

90年代になるとバリー・ギブは深刻な背中の疾患を発症し、関節炎も患います。また、モーリス・ギブもアルコール依存症の治療が必要となります。

そんな中、1997年にリリースしたアルバム「Still Waters」は400万枚以上のセールスを記録し、全英2位、全米では11位を記録。久々のヒットとなります。2001年にリリースされた「This Is Where I Came In」も全英6位、全米16位を記録しますが、これがビージーズの最後のスタジオ・アルバムとなりました。

モーリス・ギブは2003年1月12日、心臓発作により突然死。当初は活動を続ける意思を示していたバリーとロビンですが、時が経つにつれてグループ名を封印することにしました。

2012年5月にはロビンも肝臓癌で亡くなります。残されたバリーは現在もソロ活動を続けています。

ビージーズで一番好きな曲

ディスコブームの頃は私はものごころもつかない幼い時期でしたので、ビージーズをリアルタイムで聴いたという実感はないのですが、なんとなく曲の断片は覚えていましたし、ディスコブームが終わろうがビージーズの曲はあらゆる場面で流れ続けているので、もう、ずっと知っている曲たちという認識です。

ただ、成長してビージーズを認識したときに驚いたのが、彼らが白人だったこと。音だけで黒人が作っているものと思い込んでいて、すごくびっくりしたことを思い出します。

ビージーズのアルバムは「Saturday Night Fever」を最初に手にし、特にディスコブームを牽引した時代の諸作を聴いていきました。特に「Children of the World」や「Saturday Night Fever」、「Spirits Having Flown」などはダビングしたテープが擦り切れるほど聴きましたね。

ビージーズで一番好きな曲「この1曲」は、「You Should Be Dancing」、「Night Fever」など候補曲が多数あがりますが、「Saturday Night Fever」収録の「Stayin’ Alive」を選曲します。

ギターのリフとベースライン、ウェットなドラムスがグルーヴを作り出し、キーボードとストリングス、ホーンセクション、そしてほとんどファルセットのヴォーカルが絡み合ってすごく色気のある曲になっています。

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